万屋町
万屋町(よろずやまち)
はじめの頃は鍛冶屋町と称し、その後、本鍛冶屋町となるが、いつの頃からか俗名を萬屋町と呼ばれていた。そこで、延宝6年(1678)願い出て町の名を萬屋町と改めたといわれている。
傘 鉾
<飾>
平樽二組重ね鰹節七五三連(しめつらね)
<輪>
ビロードに町名を金糸にて刺繍(與廬圖也滿智)
<垂>
長崎刺繍の魚尽し(長崎市指定有形文化財)
昭和4年の「長崎諏訪祭(吉野又四郎)」には薄水色鹽瀬(うすみずいろしおせ)に海幸の種々を縫いあつめたる。と書いてあるので当時は今日の朱ではなく、薄水色の地であった様である。
<長崎市指定有形文化財>
指定年月日 平成15年5月1日
所在地 長崎市南山手町8番グラバー園内長崎伝統芸能館(くんち資料館)倉庫
江戸後期に制作された万屋町傘鉾垂が長崎刺繍「魚尽くし」であるのは、この町にかつて魚問屋があったことに因む。刺繍は文政10年(1827)縫屋幸助(下絵・原南嶺斎)による作品と、弘化5年(1848)塩屋熊吉による作品の新旧二種が存在する。
刺繍内部に綿などを含ませ立体感を出す技法には中国刺繍の技法が認められ、また刺繍の写実的表現には長崎に渡来した清朝絵画の影響が見受けられ、長崎刺繍工芸史上貴重な資料である。(長崎市ホームページより転載)
演し物
「鯨の汐吹き」(安永7年(1778)より奉納)
永島正一氏は、万屋町を以下のように紹介しています。
南蛮流の医者、栗崎家は当町に住み、鯨曳(ひ)きの納屋の旦那(だんな)は、栗崎家にて務めることになっていたそうだ。栗崎道有正羽は元禄時代幕府の医者になり(浅野内匠頭に傷つけられた吉良上野介の傷の手当てをしたという「忠臣蔵」裏話がある。
オランダ通詞の名村家もこの町の住人であった。明治時代名村泰蔵は大審院長となった。
傘鉾は、角樽(つのだる)に組み鰹(がつお)明和8年(1771)は相撲踊りで、傘鉾のダシは酒ダルに投げ花であった。
鯨曳きになって現在の飾りに変わったのである。
輪はビロードで、タレは有名な魚づくし。見事な長崎刺しゅうである。
文政10年(1827)製作のとき、下絵は原南嶺斉、縫師は、縫屋幸助。南嶺斉は港外小瀬戸の浜に水槽をつくり、魚類を集めて生態を写した。
弘化5年(1848)に縫屋塩熊吉がまた新しく魚づくしを作った。塩屋の氏は鶴野、熊吉の子は松田源五郎である。
出し物は、ご存じ「鯨の潮吹き」、安永5年(1776)愛宕山祭礼の折に市中から米挽き(こめひき)の行事があったときに、万屋町の呼子屋に滞在していた唐津呼子浦の中尾甚六(諸書に中原とあるのは誤り)という鯨頭に主人がしきりに鯨曳きをするように勧めたので、愛宕山祭礼に奉納踊りとしてこれを仕出した。
鯨曳きがくんちに登場するのは、安永7年(1778)、ちょうど200年になる。
樺島町のコッコデショとともにこの万屋町の鯨は、シーボルトの「ニッポン」のさし絵になっているが、双方くんち出し物中の白眉、コッコデショが179年、鯨が200年、国の無形文化財として指定されて、しかるべきである。
市丸茂さんの書かれた随筆の中に「先頭の庭先呈上札係、連絡旗係、傘鉾、シャギリ、先曳子供連中、ざい船(ざいぶね)、羽差船(はざしぶね)、持双船(もつそうふね)、大鯨(重量2屯)、納屋の囃子連など、外に付添人を加えると実に一行300人という大行列で・・・」といっておられるが、諏訪の踊馬場に勢ぞろいしたところは、誠に壮観、「けんらん豪華」とは、このためにあるようなものだ。
昭和4年にこれを見物された歌人佐々木信綱博士は、「シーボルト慶賀ともなひ人垣にまじらひ見るかこの鯨ひき」。慶賀とはシーボルト付の絵師川原慶賀のことである。
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)
越中哲也氏は、万屋町を以下のように紹介しています。
この町は、始め本鍛冶屋町といっていたが、延宝6年(1678)町名を万屋町と改めている。この町の奉納踊り「鯨曳」は安永年間より、はじめられ、有名な鯨の潮吹きとして、よく知られている。鯨の潮は、その体内にカラクリされているポンプが水を吹く。当時は鯨の大きな体を包むのに防水された布(きれ)がなかったので、唐船に毛織物を注文してとりよせ、鯨をつくっていた。また、鯨をとりまく船頭船にも、多くの趣向があって評判のものである。
(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)
参照
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このページは万屋町に関する書きかけ原稿です。