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新大工町

新大工町(しんだいくまち)


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郵便番号:850-0017
新大工町は、旧踊町の最北東端に位置する町で、1番から6番までの街区で構成されている。中島川下流右岸、同川に堂門川が合流する付近にある。
現在は、蛍茶屋方面へ伸びる国道34号線を挟んで、南は伊勢町、北は片淵1丁目、西は馬町に接している。町域の中央部を縦断する商店街の通りは旧長崎街道であり、その両側に銀行や玉屋百貨店長崎店を中心に、新大工町商店街を形成している。また、新大工町市場、天満市場、新天満市場などの市場が立地し、食料品など生活必需品の店が密集し、遠近からの買物客で賑う繁華街である。

<町名の由来>
本大工町に遅れて大工職が開いたことによる。寛文12年、地内の出来大工町を分離した。
外町の一番端に立地し、町域も相対的に広いのは、大工職の特性上、広大な土地を要したためではなかろうか。
また、長崎の町名によく見られる「本○○町」と「今○○町」ではなく、大工町は「本大工町」「新大工町」「出来大工町」という名付けである。推測であるが、大工職は需要が多く、新大工町出来大工町が成立した時点でも、本大工町も引き続き大工職の町であったのかもしれない(”今の”大工町ではないため)。
※同様の事例は、「紙屋町」「高麗町」「石灰町」「興善町(シンではなくアタラシ)」。職人町という括りで言えば、「紙屋町」「石灰町」の2例。

<江戸時代の歴史>
長崎外町の1町。陸手に属した。
享和2年の長崎絵図によれば、町並みは東西に延び、東はサクラ馬場、西は北馬町南馬町に隣接していた。
正保4年の長崎外町ケ町数之帳では、箇所数100(柏原家文書)、寛文3年の町の長さ536間・家持151(寛宝日記)、同12年の町の長さ261間・実箇所数67、諸役御免箇所3(県史対外交渉編)。
文化5年の長崎市中明細帳によれば、坪数4,111坪余・箇所数69・竈数296・戸数338・人数705(男350・女355)。

傘鉾

<飾>
紅葉に灯籠
<輪>
〆縄飾
<垂>
正絹両練固地織薄茶地固流紋に三社の御紋金糸縫

新大工町傘鉾

奉納踊

詩舞・曳檀尻

新大工町詩舞 新大工町曳檀尻

踊の変遷

昭和26年 曳段尻・剣舞
昭和33年 曳檀尻
昭和40年 曳檀尻
昭和47年 曳檀尻
昭和54年 曳檀尻
昭和61年 曳檀尻。(新調)
平成6年 詩舞・曳檀尻
平成13年 詩舞・曳檀尻
平成20年 詩舞・曳檀尻
平成27年 詩舞・曳檀尻
令和5年

参照

踊町
新大工町webくんち(外部リンク:Facebook)

編集者(  )
このページは新大工町に関する書きかけ原稿です。