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筑後町

筑後町(ちくごまち)

筑後町は、筑後方面からの移住者が多かったことから名付けられた。現在の筑後町は、下筑後町、西坂町、西上町等が合併して出来た。

傘鉾

<飾>
岩の上に金銀藍白の玉を置き、八足の上に鹿の角に草薙の剣を飾り榊ヒモロギ、八咫鏡(やたのかがみ)と曲玉(まがたま)をあしらう。

<輪>
しめ縄

<垂>
赤地塩瀬羽二重、銀糸の波に金糸の鯛散らし。

筑後町 傘鉾

奉納踊

昭和48年から「龍踊」

筑後町 龍踊

永島正一氏は、筑後町を以下のように紹介しています。

「上下と筑後町はあったが、上筑後町玉園町になり、下筑後町は下がとれて筑後町という。
福済寺や本蓮寺のある町。
昭和四十八年の踊り町の際、この町の傘鉾は新調されたが、昔の傘鉾は泊まり木の上に鷹(たか)が羽ばたき、鋭い目を光らせていた。
泊まり木から垂れた金らん地に、町名があって、左右に弓矢、背後に狩笠という豪快な飾りであった。
鷹で思い出すのは、鷲(わし)、今籠町の傘鉾の岩上の荒鷲はこれまた豪快であった。
この二つとも今はもう見ようにも見られなくなった。
長崎の傘鉾で猛禽を飾ったのはこの二つだけであった。」

また、下筑後町についても以下のように紹介しています。

「この町の伝統のだしものは「獅子舞」であった。
諏訪社祭礼渡御の模様が、古い絵巻物や長崎名勝図絵を見ると描かれているが、行列の中に獅子(しし)舞がある。松の森天満宮の職人づくしの彫り物板にやはり童子の獅子舞がある。
獅子舞は神楽の一種で、古くから各地にある。獅子は悪病を払い災禍を除く霊獣として喜ばれる。
上筑後町も古くから獅子にちなんだ本踊りや獅子舞を出した。
上筑後町は長与の獅子舞、下筑後町は小ヶ倉の獅子舞であった。獅子舞は一人立ちと二人立ちがあるが、長崎の獅子舞は二人立ち、緋(ひ)ラシャの唐服に黒ビロード地にボタンの花を刺しゅうした袖(そで)なし上衣を着けた唐子(からこ)がなんともいじらしい。
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)

越中哲也氏は、筑後町を以下のように紹介しています。

「この町は、昔筑後の人達が長崎に移り住み、上町の上、男風頭(おとこかざがしら)山の山裾を開いてつくった町で、通りを二つにわけて、上・下の筑後町としたが、現在、上筑後町玉園町と改めている。筑後町は昭和二十年八月の原爆の災害により、全町が焼失したので、その復興には、町内の人達のなみなみならぬ苦労あった。昭和五十五年の奉納踊りには、長崎名物の龍踊りを奉納している。」
(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)

参照

踊町
筑後町(総監督の独り言ブログ)(外部リンク)

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