籠町
籠町(かごまち)
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竹篭を作る職人が多かった町。唐人屋敷に隣接した町で、唐人から習った龍踊を奉納踊とした。
傘鉾
<飾>
龍踊楽器一式を配す。金色の龍声喇叭に紅白の縮緬をくくり、長く垂らし、銅鑼、鞨鼓を取り合わせたもの。
表に向けた鞨鼓の裏に町名を記し、裏側に面した表皮に双龍を描き、銅鑼の裏面に本加護満知(もとかごまち)と記す。
<輪>
白紋繻子。 正面に宝珠。左右に金糸浮刺繍で阿吽(あうん)双龍有り。
<垂>
白茶地に金糸龍紋織り出し。
奉納踊
「龍踊」 (享保の頃(1716~1736)より奉納。昭和32年に蛇を龍に変更)
永島正一氏は、籠町(本籠町)を以下のように紹介しています。
もとかごまち。日本の竜踊り発祥の町である。宗家のようなものである。この町には旧家の馬場次郎さんがおられていて、唐人屋敷の唐人から伝授されたまま」を後世に伝えていきたいと、いつか私に語られた。それでいいのである。
傘鉾は見事である。昔、森慶次郎さんの一手持ち、中国の楽器、ラッパ、ドラ、太鼓、太鼓の裏に町名、表皮の方に双竜を描いてドラの裏に「本加護満知」と記してある。輪は白の紋綸子、正面に宝珠、左右に金糸浮き刺しゅうの双竜、たれは白茶の地に金糸で竜門の織り出し。
飾りのラッパに紅白ちりめんが長く垂れさがっているのもよい。
見飽かぬ傘鉾。
本籠町の竜踊りは、唐人から伝えられて、長崎で独特の発達を遂げた。今や中国でも見られない風俗が長崎にある。大切にしたいものである。多くの先人たちが、今日までよくも守り続けてきたものだと思う。玉使いを務めた今は故人の白水茂八さんや、釜崎喜一さんの名前はいつまでも語り継がれていくだろう。
「(昭和53年長崎新聞「長崎くんち」より)
越中哲也氏は 籠町を以下のように紹介しています。
この町は唐人屋敷のすぐ隣町であり、江戸町と出島阿蘭陀屋敷との関係のように唐人屋敷の人達は籠町の人達に対して、特別の親しみを持っていた。
籠町の人達は寛政年間の奉納踊りに唐人屋敷の人達に習ってはじめて龍踊りをだしたという。
このとき 唐人屋敷の中国の人達は本国より楽器や衣装の一切を取りよせて援助、龍囃子(ジャバヤシ)の指導も、自ら進んで引きうけたと伝えている。
「(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)」
参照
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このページは籠町に関する書きかけ原稿です。