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丸山町

丸山町(まるやままち)

寛永19年頃に各所にあった遊女町を集めて出来た町。明治以前は寄合町と共に毎年奉納。明治以降、昭和40年まで隔年で奉納していたが、その後辞退が続いた。平成18年に41年ぶりに踊町に復帰した。

傘鉾

<飾>
 朱塗の台に金色丸額を配し丸山町の町名を記す。

<輪>
 ビロード

<垂>
 塩瀬羽二重に三社紋金糸縫

丸山町 傘鉾 

奉納踊

 「本踊」

丸山町 本踊

本踊の変遷

昭和26年(1951) 長唄「百夜草祭賑(ももよぐさまつりのにぎわい)」
昭和28年(1953) 「華の丸山写繪姿(はなのまるやまうつすえすがた)」
昭和30年(1955) 「其俤偲舞衣(そのおもかげしのぶまいぎぬ)」
昭和32年(1957) 「勇肌祭礼賑(いさみはだまつりのにぎわい)」
昭和33年(1958) 隔年制を返上
昭和34年(1959) 「其俤偲舞衣(そのおもかげしのぶまいぎぬ)」
昭和36年(1961) 「其俤偲舞衣(そのおもかげしのぶまいぎぬ)」
昭和38年(1963) 「其俤偲舞衣(そのおもかげしのぶまいぎぬ)」
昭和40年(1965) 「其俤偲舞衣(そのおもかげしのぶまいぎぬ)」
   ↓
(この間、奉納踊辞退)平成15年(2003)史上はじめて年番町を勤める。
   ↓
平成18年(2006) 長唄「百夜草祭禮花笠(ももよぐさまつりのはながさ)」
平成25年(2013) 「勢獅子祭祝諏訪社頭(きおいじしまつりをいわうすわのおやしろ)」
令和2年(2020) 奉納辞退
令和3年(2021) 奉納辞退
令和4年(2022) 奉納延期
令和5年(2023) 唐人共祝崎陽祭(とうじんとともにいわうきようのおまつり)

永島正一氏は、丸山町を以下のように紹介しています。

 朱塗りの高台に金色の円板を載せ、町名をしるす。台の下には唐獅子の置き物がある。たれは紫紺の塩瀬(しおぜ)地に金糸で、諏訪、住吉、森崎の三社紋を刺しゅう、輪はビロード。
 寄合町の傘鉾とともに傘鉾の簡素で古風な俤(おもかげ)をよく残したものといえよう。
 奉納踊りはいうまでもなく本踊り、外題(げだい)は一定しない。
 「諏訪祭御代長崎」(前後日共)「春色小松曳(前日)宮比御神楽(後日)「四季の詠(前日)吾妻八景(後日)」というように毎年変わっていた。
 昭和4年「今様小舞」を出した。これは久世東離(くぜとうり)の長唄で、「御代長月の神いさめ、御供仕ふる町々が、羅綾の裳綿繍の、粧ひきそふ有様は、いづれ劣らぬ花紅葉・・・」というようなものであった。
 久世東離は、鎮西日報の記者をした人で、のちに文筆で立ち、長崎花柳界の年頭の弾き始めの歌詞は、全部この人の作詞で、町検番、東検番、稲佐検番のため、明治の末期から大正時代、死去する昭和10年まで作詞を続けた。昭和28年に「東離遺稿」が、一力の渋谷健次さん(故人)を中心として刊行された。
 天和2年(1682)、丸山町寄合町は踊りの外に一町余りも続く母衣掛(ぼろかけ)武者を添えたが、これはこの年限りであったという。
 この両町の遊女は皆々覆面して踊ったが、元禄4年(1691)からは、禿(かむろ)ばかりがつとめることになったという。
 禿は小屋入りの日をもって遊女の名を改め、9日の諏訪神事踊小舞の役をつとめた上で、いよいよ遊女となるのであった。
 丸山、寄合両町の踊りには、段尻(だんじり)が付属して踊りを一層華やかなものにした。
 この段尻は、いわゆる底抜け屋台、大きな青竹を結びつけて、屈強な男衆が前後を担(かつ)ぐ。段尻の屋根の飾り物は秋日に映え、青竹のきしみ、なかには、ぴん太、愛菊、桃次、小絹、歌之助という美奴連がいて、太鼓、三味線で優雅に囃(はや)す。(明治41年)
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)

 

参照

丸山町くんち簿(個人サイト)
踊町

編集者(  )
このページは丸山町に関する書きかけ原稿です。