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上筑後町

上筑後町(カミチクゴマチ)

永島正一氏は、上筑後町を以下のように紹介しています。
観善寺の開基浄念は、元は筑後柳川(河)の人で、長崎に移り住み、仏門に帰依(きえ)して、のち一寺を創立した。そのころ長崎はキリシタンの盛んなところであった。その門前町を筑後町と称したという。これは一説であって、浄念が長崎に来たのは元和のころといい、慶長の末といい、定かでないから、はっきりしたことではない。
曹洞宗の永昌寺、黄檗(おうばく)宗の聖福寺、玉園幼稚園などがある。今は玉園町
この町には、帰陽第一の料亭迎陽亭(こうようてい)があった。かつて傘鉾は、この迎陽亭杉山氏の一手持ちで出された。
八ッ脚にえぼうし、神楽鈴、中啓(ちゅうけい)を乗せ、玉垣(がき)の中に御幣(ごへい)、榊の生樹。神楽鈴の五色の絹布が、長々と垂れているのが印象に残る。輪はシメ飾り、タレは白地塩瀬に秋草を藍色に染出した几帳(きちょう、神前でよく見られるとばり、室内に立てて隔てとする具)。
出し物は獅子づくしである。長唄「石橋」を前日に、「勢獅子」を後日、「越後獅子」が出て、「長与の夫婦獅子」が昭和九年に出ている。まだ「長与村」といっていたであろう。長与の獅子舞いは上筑後町と極めてゆかりが深い。
「(昭和53年長崎新聞「長崎くんち」より)」

参照

踊町

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