長崎くんちの歴史
[長崎くんちの歴史]
長崎くんちが始まったのは、寛永11年(1634年)のことでした。
この年、榊原。神尾。両奉行より「諏訪祭礼」を行なう旨お触れが出され、喜んだ青木賢清(初代宮司)は、宝殿、拝殿を造営し、神輿を造る(祭礼までの日数が少なかったので諏訪・住吉の2社分のみ造ったと言われている)
お旅所を大波止の地と定めた。
この時の次第は次のとおりであった。
9月1日 本社、お旅所にしめ縄を引く。
9月6日 丑の刻(午前2時頃)神輿に遷座される。
9月7日 朝から総町の中よりくじで選ばれた11町が奉納をする。
午の刻(正午頃)渡御があり、未の刻(午後2時頃)仮宮(お旅所)に着座される。
9月8日 お旅所に御逗留。
9月9日 10町が奉納をし、午の刻に還御されて本宮に遷座される。
- この後、湯立て神楽(ゆだてかぐら)や流鏑馬(やぶさめ)などの祭礼も残りなく済まされる。
- この時に奉納した御供町
- 7日 船津・本博多・樺島・平戸・新紙屋・麹屋・馬・本鍛冶屋・浜・銀屋・諏訪
- 9日 榎津・古川・本紙屋・新大工・磨屋・毛皮屋・大村・本五島・今・金屋
慶安元年(1648年) 8月玉園山の地(今の処)に遷宮。
明暦元年(1655年) この年より6年廻りとなる。(町数63町)
- この年より、当年11町・翌年10町として6年廻りとなる。
寛文3年(1663年) 長崎の町の大半が燃えてしまうという大火があり、 その後、道の幅を統一したり、町の区画整理等が行われる。
寛文12年(1672年) 町の数が77ヶ町に増えたので、11ヶ町づつ7年廻りとなり、近年までこの組み合わせが続く。
この年に決められた組み合わせは、次のとおり。(丸山町・寄合町は毎年奉納)
(実施は寛文13年(1673年)[注]からと思われる)
- 船津町・本博多町・樺嶋町・平戸町・新紙屋町・麹屋町・北馬町・本鍛冶屋町・西浜町・銀屋町・諏訪町
- 榎津町・西古川町・本紙屋町・新大工町・磨屋町・毛皮屋町・出来鍛冶屋町・大村町・本五島町・今町・金屋町
- 油屋町・今石灰町・下筑後町・今籠町・今鍛冶屋町・西中町・東中町豊後町・本下町・外浦町・島原町
- 新興善町・今下町・西築町・東上町・南馬町・大黒町・新石灰町・東浜町・東古川町・中紺屋町・本古川町
- 東築町・桜町・小川町・内中町・西上町・八百屋町・勝山町・恵美酒町・今紺屋町・新高麗町・炉粕町
- 本大工町・今博多町・本紺屋町・今魚町・本籠町・材木町・古町・上筑後町・後興善町・江戸町・本興善町
- 浦五島町・引地町・掘町・新町・本石灰町・桶屋町・大井手町・船大工町・袋町・酒屋町・出来大工町
宝永2年(1705年) 諏訪・住吉・森崎の3社共に渡御
寛政3年(1791年) 長崎奉行所より「諏訪神事に歌舞伎に類する舞踊をなす事を禁止」の布令が出される。
寛政5年(1793年) 祭礼の日取を9月9日遷御、9月11日還御に改められる。
天保11年(1840年) お上りの時、伊良林郷と高野平郷との間で大喧嘩があって、これまで2郷で1社担いでいたのを12年から1郷で1社担ぐようになる。
明治元年(1868年) 諏訪祭礼が質素なものに変更される。
祭礼の日取りが9月7日渡御、9日還御に変更される(慶応4年4月26日)
*ただし、元年は雨天のため11日渡御、13日還御。
傘鉾は、直径4尺、飾りは町名を標すのみ。
奉納踊りは、丸山・寄合を除いて廃止。
お供町11町より3人づつ33人が武者姿で神輿行列に参加
- 明治8年(1875年)太陽暦の採用で、10月7、8、9に変更される。
- 明治11年(1878年) 神輿新調(現在も使われている方形神輿)
- 明治38年(1905年) 日露戦争のため、傘鉾のみ奉納。
大正元年(1912年) 奉納踊り遠慮。(明治天皇崩御)
(編集中・・・)
[注]
寛文13年(1673年)は9月21日に延宝と改元されたが、9月9日は、まだ寛文なのでここでは「寛文13年」とした。
編集者(松尾)
このページは長崎くんちの歴史に関する書きかけ原稿です。