くんち塾フォーラムへようこそ、このページは長崎くんちに関する出来事や歴史を日々更新しています。

今博多町

今博多町(いまはかたまち)

『地図』

新しく博多商人の町が出来て、古くからある町を本博多町、それに対して新しく出来た町が今博多町となった。この町は昔の花街があった所とされ、くんちの草創期はとても活躍した町であったろうと思われている。ここは昔の町界のままである。

<傘 鉾>

<飾> 町名を記した金幣に玉垣を配し三社紋をつけた火焔太鼓に榊をあしらう。

<輪> しめ縄

<垂> 塩瀬羽二重、亀甲形に鶴の文様入り三社紋織り出し。

傘鉾(クリックで拡大)

<奉納踊>

「本 踊」

本踊(クリックで拡大)

 奉納の推移

昭和30年度
 「本踊」=「勢舞艶姿祭獅子(きおいまうあですがたまつりのしし)」

昭和37年度
 「阿蘭陀万才」

昭和44年度
 「本踊・獅子頭曳物」=「勢舞艶姿祭獅子(きおいまうあですがたまつりのしし)」

昭和51年度
 「本踊・石橋曳物」=長唄「牡丹蝶扇彩(ぼたんにちょうおおぎのいろどり)」

昭和58年度
 「本踊」=長唄「三社恵寿三番叟(さんじゃのめぐみをことほぐさんばそう)」

平成3年度
 「本踊」=長唄「今日爰祭祝鶴舞(きょうここにまつりをいわうつるのまい)」

平成10年度
 「本踊」=長唄「今日爰祭祝鶴舞(きょうここにまつりをいわうつるのまい)」

平成17年度
 「本踊」=長唄「今日爰祭祝鶴舞(きょうここにまつりをいわうつるのまい)」

平成24年
 「本踊」=長唄「今日爰祭祝鶴舞(きょうここにまつりをいわうつるのまい)」

令和元年度
 「本踊」=長唄「今日爰祭祝鶴舞(きょうここにまつりをいわうつるのまい)」


「永島正一氏は今博多町を以下のように紹介しています。」

この辺りは、昔々遊女街であった。博多町にあふれた遊女屋がここに移ってきたのである。
アメガタ町ともいう。アメガタは編笠橋の編笠の訛(なま)ったものという。アメガタ町の「福助さん」というお菓子はうまかったバノ、と昔の人はよくいったものだ。
この町の傘鉾は、町名を記した金幣、三社紋を付けた火焔(かえん)太鼓に榊(さかき)。
輪はシメ、たれは白地塩瀬に壁代(几帳ーきちょう)をかたどる。
町検番が編笠橋の向こうにあって奉納踊りはもちろん町検出演、大正二年は、前日が、「鶴の舞」で、後日が「老松」。叶(かのう)の蝶菊、一力の凸助(でこすけ)、一力のつぼみ、月の家の静枝などとある。
昭和三十七年「阿蘭陀万才」、昭和四十四年「勢舞艶姿獅子」、昭和五十一年「牡丹蝶扇彩」。
「(昭和53年長崎新聞「長崎くんち」より)」

「越中哲也氏は今博多町を以下のように紹介しています。」

本博多町に対して、今博多町の町名がつけられている。
慶長年間(一六〇〇年頃)には、すでに、このあたりは遊里として開かれていた。
この町は初めより、長崎くんちには関わりの深い由緒ある町である。
おそらく、丸山、寄合町が寛永十九年に開かれる以前は、この町が奉納踊りの中心であったと考える。
それ故に、この町の傘鉾は、金の御幣を中心にして奏楽用の釣太鼓と榊を配した、おごそかなもので、垂れ(幕)もまた、これに合わせて、几帳(きちょう)の型につくられている奉納踊りも伝統的に古式の本踊りを奉納してきたのも、その故であると考える。

「(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)

参照

今博多町ホームページ(外部リンク)
踊町

編集者(  )
このページは今博多町に関する書きかけ原稿です。