鍛冶屋町
鍛冶屋町(かじやまち)
鍛冶屋さんが集まって出来た職人町。寛文12年に今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町に分けられたが大正2年に再び合併して鍛冶屋町となった。現在の鍛冶屋町は町域が変わってしまったが、くんちには昔の町域で出場している。
鍛冶職人の安山一族は、長崎の大方の梵鐘を作った。
傘鉾
<飾>
からくりの三条小鍛冶
(童子の面と狐の面がカラクリにて変り、三条小鍛冶が槌を振り上げ刀を鍛える動作をする)
<輪>
しめ縄
<垂>
(前日)爪つづれ織り七福神
(後日)金地糸錦三社紋
奉納踊
昭和6年までは「七福神の踊」、昭和27年から「宝船・七福神」
永島正一氏は、鍛冶屋町を以下のように紹介しています。
古くは鍛冶屋の町。金屋(かなや)稲荷があった。その跡を金屋跡と呼んだ。金屋とは、昔鍛冶(かじ)工や鋳物師のことをそういったのである。
この町の鋳工安山(あやま)一族は、長崎の寺々の梵鐘(ぼんしょう)を作った。
崇福寺の梵鐘や大釜(おおがま)、聖福寺の鉄心の大鐘、本河内の青銅の塔など、その他多数の作品がある。
初め今鍛冶屋町があって、延宝元年(1673)東側を分割して出来鍛冶屋町が置かれた。大正二年両町は合併して鍛冶屋町となる。
傘鉾は町名にちなんで、都三条に住む刀匠小鍛冶が、勅(ちょく)命により刀を打つ、小鍛冶は深く稲荷明神に祈り、その神助によって名刀小狐丸を作ったという故事を取り入れた飾りである。
「からくり」があって童子の面が狐の面と変わり小鍛冶の槌(つち)が上下に動いて刀を打つ動作を表す。
こうした仕掛けは、桜町の傘鉾(児島高徳)、桶屋町の傘鉾(時計)にもある。
輪はシメ飾り、前日がつづれ錦織に七福神織出し、後日は金地唐織に三社紋である。たれは大正六年の新調である。
昭和四十一年に橋本磯吉さんがこれを一手持ちで出したことがある。
明治三十五年と明治四十二年、今鍛冶屋町のだしものは、本踊り「七福神」にだんじりであった。
明治四十一年、出来鍛冶屋町は、本踊りで前日「小鍛冶」、後日「山姥」であった。
大正二年合併後は、「宝船七福神」がこの町のだしものとなった。
昭和二十七年には、宝船を新調した。
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)
越中哲也氏は、鍛冶屋町を以下のように紹介しています。
新町名の鍛冶屋町は広い範囲になっているが、奉納踊りを出している鍛冶屋町は旧町名の人達によって奉納されている。
昔、この町は今鍛冶屋町、出来鍛冶屋町の二つの町内にわかれ、鍛冶屋さんの町であったが、幕末の頃より、この町は急速に商店街として発展し現在に至っている。
大正二年、両町は合併し、鍛冶屋町となった。このとき、出来鍛冶屋町は有名な三條小鍛冶のカラクリ細工の傘鉾を残し、今鍛冶屋町は伝統の奉納踊り「七福神」を残し宝船に乗せた。
(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)
参照
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