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馬町

馬町(うままち)

諏訪神社の門前に位置し、長崎街道を往来する公用の馬を手配する町であった。寛文12年南馬町北馬町に分割されたが明治5年に統合されている。

傘鉾

<飾>
 馬具に弓矢陣笠鞭を配す。(天保12年(1841)作)

<輪>
 黒ビロード

<垂>
 紫繻子に金糸にて綸子模様縫い、それに金糸・銀糸にて柏に雲の形を縫い散らしたもの。

 馬町傘鉾 

奉納踊

昭和56年(1981)まで「本踊」で出場。平成15年(2003)、22年ぶりに出場。

 馬町本踊

昭和28年(1953)
 長唄「対面花春駒(たいめんはなのはるこま)」

昭和35年(1960)
 長唄「瓊浦姿競花写絵(たまのうらすがたをきそうはなのうつしえ)」

昭和42年(1967)
 長唄「槍踊競姿絵(やりおどりきそうすがたえ)」

昭和49年(1974)
 長唄「諏訪祭賑三番叟(すわのまつりにぎあうさんばそう)」

昭和56年(1981)
 長唄「今日爰祭祝鶴飛翔(きょうここにまつりいわうつるのはばたき)」

平成15年(2003)
 長唄「今日爰祭祝三番叟(きょうここにまつりをいわうさんばそう)」

平成22年(2010)
 長唄「今日爰祭祝三番叟(きょうここにまつりをいわうさんばそう)」

平成29年(2017)
 長唄「今日爰祭祝三番叟(きょうここにまつりをいわうさんばそう)」

 永島正一氏は、馬町を以下のように紹介しています。

 諏訪神社の前の町。長崎奉行所御用の馬36頭を常時備えたという町。そこで傘鉾の飾りも馬具一式。この町の傘鉾に限り長崎奉行所から下げ渡しの金子があったという。 北馬町南馬町とあったが、明治5年4月合わせて一町となった。 傘鉾の飾りは、鞍(くら)、下鞍、くつわ、手綱に陣笠、弓矢、むち。下鞍の一枚にみの亀の浮き刺繍があって見事。もう一枚に町名をしるす。弘化年間の作という。 たれは繻珍(しゅちん)、万字づくしの地紋に三社紋と雲の織り出しである。  出し物は本踊りで「堀川夜討」前日、「小鍛冶曽我」後日。これが明治大正と続き、昭和に入っては、「花雲助合肩」前後日とも。 昭和28年は、「対面花春駒」、昭和35年は「瓊浦姿競花写絵(たまのうらすがたをきそうはなのうつしえ)」、昭和42年は、「槍踊競姿絵」、昭和49年「諏訪祭賑三番叟」と休みなしに続く。さすがにここはお諏訪さまの門前町だから、どうでも奉納踊りを欠かすわけにはいかない。
 (昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)

 越中哲也氏は、馬町を以下のように紹介しています。

 この町は昔、長崎の町の入口に当り公用の馬を用意したところより町名がつけられ、北馬町南馬町との二町にわかれていたが、明治5ねん、両町は馬町として統合されている。 馬町の傘鉾収納箱には、弘化年間この傘鉾が製作された墨書銘があり、傘鉾の飾物(だし)は、町名に因んで鞍、下鞍、轡、手綱などの馬具に騎乗笠、弓矢、鞭をそえ、下鞍の一枚には立派な長崎刺繍のみの亀を他の一枚には、町名が記してある。 奉納踊りは例年、本踊りを出している。
(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)

参照

踊町

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