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元船町

元船町(もとふなまち)

 昭和48年元船町と玉江町の一部が合併して出来た町。昭和33年まで近隣の町を含めて大波止町の名前で「入船祭(ボサ祭)」を奉納した。
 寛永11年、くんちが始まった時に大波止に御旅所が置かれた。(現在の文明堂総本店の辺り) その後、前面の海の埋め立てが進み御旅所の位置は何度か変更されている。

傘鉾

<飾>
昭和62年までは「鉄砲玉に鴎三羽と錨」、平成7年から「竜宮門に千里眼・順風耳の立像、周囲に金波銀波」、平成21年から「大波止の鉄砲の玉に鶴二羽、老松樹」

昭和55年奉納   平成14年奉納

平成21年奉納

奉納踊

「唐船祭」

平成21年奉納

永島正一氏は、元船町を以下のように紹介しています。

 元船町は、前に「大波止町」の町名で、「入船祭り(ボサあげ)」を出し、のち元船町で、「唐船祭」となったものであろう。
 入船祭りは、長崎出身の大衆作家・平山芦江さんの考案であった。
 生涯長崎、と長崎を恋いこがれた平山芦江さんの最後の企画であった。昭和二十六年、この出し物を見るために帰郷し、その後間もなく亡くなった。
 「泣いて笑うて人生五十旅した故郷の夢まくら」
 「オランダ好みと唐人好み先祖先祖の足のあと」
 芦江の本領は小説でなく、むしろ小唄(こうた)、都都逸(どどいつ)にあるといった人がいるが、多くの小唄、都都逸を作り、「街歌」と称して、その普及に努めた。小説の代表作は「唐人船」上下二冊である。
(昭和53年長崎新聞「くんち長崎」より)

越中哲也氏は、元船町を以下のように紹介しています。

 明治三十七年、長崎港湾工事のため、大波止の前面の海の海域を埋め立て、この町の地域が造成されたので、町名を昔の波止場に因んで、元船町と名ずけ、踊り町に参加した。
 傘鉾も、大波止の名物「鉄砲玉(テッポンタマ)」を中心にして、錨と鶴を配していた。
 奉納踊りも、昔、長崎の港に入港し、ここ大波止に着岸していた唐人船を出している。唐人船には、唐人の服装をした、町内子供連中が乗り、これも、中国より購入した唐楽器をつかって、龍囃子(じゃばやし)をはやし、鉄砲花火がならされ、長崎くんちの異国趣味をかきたてる。

参照

踊町
元船町自治会(外部リンク)

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