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江戸町

江戸町(えどまち)


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長崎の町立ての頃にできた町で出島が出来てからは、その出入り口となる。
出島に日用品を売るコンプラ仲間の仲宿があった。
この町にはオランダ人が送ったという町紋があり、俗にタコのマクラと呼ばれている。(商標登録 2017年7月31日出願、2018年4月13日登録)

タコのマクラ

傘鉾

<飾>
昭和51年までは、「松と紅葉をあしらい白木鳥居に鳩を配す」、平成3年からは「朱塗杯とVOC染付け皿を猫足台に載せ下に洋酒の器を配す」となる。
<輪>
ビロード(表に和文字で「江戸町」(元諏訪神社宮司 上杉千郷 揮毫)、裏に洋文字で「Jedomachi」(元オランダ大使 R・C・ボスチュマス メイエス 揮毫))
<垂>
塩瀬羽二重に三社紋を金糸刺繍。(令和元年(2019)新調)

傘鉾(クリックで拡大)   旧傘鉾(クリックで拡大)

奉納踊

大正の頃は「兵式教練」、昭和51年「オランダ万歳」、昭和58年からは「オランダ船(おらんだせん)」となる。

オランダ船(クリックで拡大)

「永島正一氏」は、江戸町を以下のように紹介しています。

背後に長崎奉行所、前には出島オランダ屋敷、石橋一つで向こうに渡れば、そこはオランダ。
こちら側は日本、日本を代表する都はえど。その江戸をズバリ町名にした誇り高き町である。
町の紋章は俗にいう「タコノマクラ」、J.D.M を組み合わせてみたらタコの形になった。もちろんこれはオランダ人が作って江戸町に贈った紋章。こんな町章はほかにない。
江戸町の人は大いにこれを誇りとして大切にしなければならない。
傘鉾の今の飾りは、松と紅葉に白木鳥居にハトを配したもの。輪はシメ飾り、タレは白塩瀬に三社紋だが、昔は松と紅葉と根締めに縞笹(しまざさ)、中央の冠台に元師帽、軍刀をもたせ掛け、後の松に聠隊旗という軍国調豊かな傘鉾であった。
それもそのはず、「江戸町の兵隊さん」。この町「兵式調練」。本古川町の軍艦に対してこちらは陸軍。日清、日露の戦争大勝利、かくして出し物にも陸海軍が登場した。
その前はご存じ「阿蘭陀兵隊さん」。奉納踊中の特色のある出し物、オランダ人も援助したのと好一体。どちらも張り合ったものであろう。
「阿蘭陀兵隊さん」は、ワーテルローの戦いにオランダなどの連合軍がフランスに大勝したことを祝して、奉納踊りに取り入れたという説があるが、あるいはそうかもしれない。
この出し物には、紅毛花車がついた。紅毛の将軍と夫人が同乗する通り物である。
花車の上部にビードロ細工で、花やブドウをあしらい、踊馬場では、たちまち上部が開いて赤白青の三色旗が現れるというのだから、身の内がゾクゾクするような見ものであったろう。
おそらくブドウの踊りは、出島蘭館内のブドウだなを模したものであったろうと思われるが、ビードロのブドウ玉がチャリンチャリンと道中に余韻をも残す行列はなかなかの美観であったという。
昭和三十七年であったか、江戸町は長崎古版画によって、この紅毛花車を復活させたのはうれしいことであった。
軍楽隊は、オランダの行進曲を奏したが、のちには長崎振遠隊の行進曲の変わり、戦後も「オランダ楽隊」が出ている。
「(昭和53年長崎新聞「長崎くんち」より)」

「越中哲也氏」は、江戸町を以下のように紹介しています。

長崎奉行所西役所(現在の県庁(マゝ))下の海岸に造られた町である。
寛永十一年(一六三四)この町の前面の海岸に、扇形の出島がつくられた。
寛永十八年(一六四一)オランダ商館は平戸より出島に移ってきた。
出島の通路は江戸町より出島に架けられた石橋が唯一のものであったので、江戸町の人達と阿蘭陀屋敷の人達とは特別に親しかった。
その故に、昔の江戸町の奉納踊りはオランダ兵隊だった。出島のオランダ人は、この奉納踊りに援助を惜しまなかった。
現在も江戸町は、町内の子供達のオランダ楽隊をのせた、オランダ船を奉納踊りに出している。
又、この町の町印は、JMDを組み合わせたもので、昔、オランダ人が図案したものという。
」「(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)」

参照

令和元年 江戸町オランダ船(FB)(外部リンク)
江戸町オランダ船のブログ(外部リンク)
踊町

編集者(松尾)
このページは江戸町に関する書きかけ原稿です。