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魚の町

魚の町(うおのまち)

[地図]

昭和36年本大工町(全部)と今魚町(全部)、酒屋町紺屋町の一部を合併して現町域となっている。
町域の3分の1は「公会堂跡地(市役所予定地)」と「長崎市民会館」となっている。

傘鉾

<飾>
うたせ網、魚籠、鯛、海老、わせ、葦(よし)を配す。
(長崎を代表するビードロ細工で、町内の玉屋硝子細工所で制作。嘉永六年(1853年)の作とされる。)
<輪>
蛇籠(じゃかご)にさざれ石

<垂模様>
正絹無双に曙ぼかし織。(平成3年復元新調)
(すそに青海波地紋、波頭本金糸縫取、百年を経た従来の垂を復元)

傘鉾(クリックで拡大)

奉納踊

「川 船」(かわふね)現在の船は昭和30年製造

川船(クリックで拡大)

永島正一氏は、魚の町を以下のように紹介しています。

今魚町は今は魚の町である。
昔、魚市場があった町、橋の名前が魚市橋。
イヲノマチと訛(なま)っていう。当町の旧家、べっ甲細工商、江崎家(当主江崎栄一)は私の家とは江戸時代以来の親族である。
傘鉾はいまさら、いうまでもなく、はなはだ有名である。ビードロの傘鉾の飾りは、本紙屋町のビードロ紙、東古川町の投網、桶屋町のビードロのモザイク、榎津町のビードロのタイ、それに松をビードロで作ったものは数カ町の傘鉾に見られるが今魚町の傘鉾の飾りは長崎ビードロ細工中の粋を集めたものである。
タイ三匹、ワセ一匹、伊勢エビ一疋(ひき)、ビク二個、青竹の竿(さお)、うたせあみ、葭(よし)九本などすべてビードロ細工、真に見事なものである。
嘉永二年(1849))、今魚町玉屋丸勢民三郎の作。
昭和二年、新たに鯨一頭を加えたが、これは米倉氏の作であった。輪は黒ビロードに金糸で町名。のちに、蛇籠にさざれ石と代わっている。たれは白地の琥珀(こはく)に青海波。
出し物の川船は、いつごろから始まったものか知らない。この傘鉾のできたころからではなかろうか。
傘鉾の飾り、たれ、出し物が町名今魚町にふさわしく、まとまりのあるのがよろしい。
川船の屋根飾りは芦(あし)の植え込み、根草は野菊、水棹(さお)と四ツ手網を配したもの。
「(昭和53年長崎新聞「長崎くんち」より)」

越中哲也氏は魚の町を以下のように紹介しています。

中島川ぞいにあり、昔は、この町のところまで、船がのぼってきていた。
そのため、このあたりに魚市場があったので、ここの町名になっている。
長崎第一の金工で、女鋳物師として有名な「かめ女」もこの町に、住んでいたという。
この町の奉納踊りは町名が魚に関係があり、町の一部が中島川に面していることにより、川船を出し、子供の船頭さんが網をうち、大いに活躍する。
又、川船の飾物にビードロ細工の網が飾られているのも有名である。
「(昭和62年長崎フォトサービス「長崎くんち」より)

参照

「魚の町 川船」長崎くんち2019年(外部リンク)
踊町

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このページは魚の町に関する書きかけ原稿です。